生きとし生けるものは、やがて必ずその命を終え、その体は土に帰って行きます。そのプロセスは「発酵」をともない分解されていきますが、同時に、「うま味」という特別な瞬間も作り出しています。
エネルギー通貨ATPからイノシン酸へ
全ての生き物は、生命活動においてエネルギーとなる物質を持っています。聞き慣れない言葉ではありますがATP(アデノシン三リン酸)という物質が大きく関わっていて、脂質、糖質、タンパク質から作られます。ATPは筋肉を動かすときのエネルギー源となり、全ての生き物に存在しています。
実はこのATPこそ、うま味の元になる物質です。
ATP自体にはうま味成分はないのですが、ひとたび生命が死ぬと、ATPはアデノシンデアミナーゼという酵素によって、イノシン酸に変わります。このイノシン酸こそがうま味の正体。人が美味しいと感じるのはこの物質によるものです。〆たての魚より、熟成させた魚の方が美味しいのは、ATPがイノシン酸に変わったから。魚だけでなく動物の肉も、寝かせると美味しくなるというのも同じことが起こっています。「熟成肉」なんていうのが流行ったのも、結局は「うま味」の問題なのです。
しかし、イノシン酸の状態は長く続きません。やがて腐敗して、HxR(イノシン)、Hx(ヒポキサンチン)へと変化していきます。腐敗してしまうと、もうおいしくはありません。
「○○は腐りかけが美味しい」というのも、あながち嘘ではないのです。
腐敗の一歩手前の段階がうま味的にはMAXな状態ですから。
出汁はうま味の瞬間を閉じ込めた保存食
このイノシン酸のうま味は、それ以上進むと腐敗になりますが、先人達は煮干しや節という保存食にすることで、このイノシン酸の状態のまま食物を保存することに成功しました。
身は焼いたり煮たりすることで、イノシン酸の量が増えます。そしてそれを乾燥させることで、水分がなくなり腐敗の活動ができなくなり、プロセスがストップします。
昔の人たちは、煮て干すことで長持ちして旨味が強くなるということを経験的に知っていたのでしょうね。
つまり、出汁というのは、腐敗のプロセスにおいて一瞬輝く瞬間の時計を止めて凝縮した世にも珍しい物体なのです。
美味しいということは、その命が生き生きしていた証
ATPは、筋肉を動かす源の物質であると言いました。うま味が多いということはATPが多かったということ、すなわちその生命体は亡くなる直前まで命がみなぎっていたという証です。
ですから、「美味しい」ということは、その生命の生きる力の強さを取り入れているということでもあります。つまり美味しいということは、栄養価が高いということになりますから、自らの生命をより活発にするためには、より美味しいものを選ぶということです。美味しい物が好き、ということは自分自身がより活発になりたいという証でもあるのです。
他者に与える命の連鎖
どんな生き物も、死んだ後に同じプロセスをふみ土へと帰っていきます。人間も同じです。生前いかに名声があろうとも、お金を溜め込もうとも、あるいは貧乏でも、不幸でも、幸福でも。最期はみな平等に同じプロセスをたどります。そしてみな最期に他者に対して「美味しい」という最期の晴れ舞台を輝かせて、自らを与え、そして帰っていきます。
おもしろいものです。死ぬまでは死んでなるものかとギリギリまで踏ん張りますが、死んだ瞬間から、今度はどんどんと自分を壊して他者に与えていくんです。これはもう長大な連鎖活動なんでしょうね。
しかし、現代では、人間は死んだら、火葬されてすぐ骨にされちゃいます。。。なんというか、最期の輝く瞬間がないのはちょっと寂しいことです。
ここ東京に住んでいると、「命」や「自然」というものを普段なかなか感じることがなく生きてしまいます。しかし、どんなに技術や科学が発展しようとも、リアルな命の部分は脈々と変わりません。やっぱり本物の「美味しさ」とは、「生きる」ということと直結しているように思います。人工的につくられた「うま味」になにか疑問を抱くのも、深層はそこにあるのかもしれないなと思いました。だってうま味って、他の塩味、甘味、苦味、酸味のどの味覚よりも生命由来に直結していますからね。
ふとそんなことに思いを馳せた今日でした。