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【コラム】生と死の境界線、あるいはグラデーション

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私の友人に繁延あづささんというカメラマンがいます。(勝手に友人と思っているだけかもしれませんが)

彼女は、長崎に移住し雑誌や広告など素晴らしい仕事をしながらも、ライフワークとして、出産のシーンや子供の写真を撮っている。最近では地元の猟師さんについていって狩猟の撮影をしている。最初話を聞いた時には、「え?狩猟?」彼女はどこに向かっているんだろう思っていましたが、写真を見て、文章を読んでいくうちに、すべて一つに繋がっているように思いました。人の生、生き物の死、一見タブーな場面、普段現代社会で生活していると人はあえて見ないように、あるいはそんなことはどこか知らない世界で行われているようなことがリアリティをもって読者に伝わってくる。それでいて、気持ち悪いとか、グロイとかそういう部分は感じさせずに、その場の空気感や臨場感が見ているこちらにグイっと入ってくる。

そんな狩猟の話を亜紀書房のウェブマガジン「あき地」で連載を初め、現在進行中で隔週で記事がアップされている。そんな中、東京でトークイベントをやるというので喜び勇んで参加し、そして図々しくも、その後も飲みに行ったりして、楽しい時を過ごしました。

 

生きること、死ぬこと、そしてそれは当たり前に誰にでも訪れることであるにもかかわらず、我々現代人にとって、どこか「明日は必ず来る」と思って生きているふしもある。自分だけは死なないかもしれないし、あるいは、ずっとずっと先のことで、想像もつかないくらい先のことと思っているかもしれない。医療が発達したら、永遠の命もあるかもしれないと夢見てしまう。しかし、現実はそんなことはなく、死が訪れるのは50年後かもしれないし、5年後かもしれないし、5日後かもしれない。しかし、日頃そんな覚悟はなく、なんとなく平和な毎日の中で、仕事をしたり勉強をしたり子育てをしたりして、なんだか忙しいような毎日を繰り返している。しかし、彼女の写真を見ると、そこから目を背けないために訴えかけてくるものがある。生き物は生まれ、死に、そして朽ちて、土に帰っていくという当たり前のサイクルを感じずにはいられない。彼女の写真と文章が面白いのは、自分も迷いながら、その場の現実を見て、感じたこと考えたことを淡々と粛々と描き、なにかを人に強要することなく、その先のことは見た人に想像させるところだ。

私自身はまったくもって無神論者であり、死んでしまったらパソコンの電源が落ちるように、無限の無が待っていると思っている。しかし、それが故に、その無限の無という状態を想像すると、とても恐ろしく、そこに気持ちのスイッチが入ってしまうと、もうどうしていいか分からないような絶望感に襲われ、思わずシャワーを浴びながら、「ワーー」っと叫んでしまいたくなる。そんなときに何か信じられるものがあると救われるのかもしれないが、残念ながら性格が歪んでいるのか、そっち方面にいくことはない。だから、ずっと悶えているしかない。信仰を持てるということは、ある意味幸せなことなのかもしれない。

発酵という観点から生と死をみてみると、  

発酵とは菌による分解作用で人にとって有益なものになることを発酵と呼ぶが、微生物が行う分解活動(生命活動)は生きているときからそこらじゅうにあり、それは発酵と呼ばないまでも、菌による勢力争いが体のまわりでは常にある、その勢力に負けると、風邪をひいたり、お腹を壊したりするし、勢力が勝つと、快調で身も心も生き生きする。そして、ひとたび死んだ瞬間から、体はその防御作用がストップし、自己消化をはじめ、外菌に侵食されあるいは、他の生物の餌となり、最後は骨となり、その骨も長い年月をかけて無くなっていく。しかしその無くなっていく過程というのは、他の生物にとって「与えている過程」でもあり、さまざまな段階においてさまざまな目に見えない生物がそれをエサとしていく。繁延さんは文章の中で「生と死と再生 ” が100パーセント循環」と言っている。まさにそういうことで、どんなに時代が発展しようとも、肉体という入れ物はそのようにできている。つまり、自分という肉体は循環の一部分であり、いまという時代にたまたま湧いてきたものでしかない。現代は単純にそれが見えづらくなっているだけで、なにも変わってはいない。ナマケモノは捕食されるときに、無駄な抵抗をしないで、殺されるとわかった瞬間に力を抜くという。死ぬことは当たり前でありそのサイクルは当然のことだから、忌み嫌うものでもないということを分かっているのかもしれない。

だしで言えば、生き物が朽ちて果てていく過程のある瞬間を人為的に閉じ込めたものを抽出したエキス。生死のプロセスの一部を人間が美味しいと思う場面を切り取ったものとも言えます。だから、おいしいだしというのはその命の輝きをいただくのだなと思ったりしています。

高校生のころ、国語の先生が、授業の中で突然「自分は死ぬのが怖い。だけど、死んだらその体は土に帰って、そこにお花が咲いたり木が生えたりすると思えば、まあなんとか受け入れられるかもしれない」と言っていたことを思い出す。当時は何を言っているのか分からなかったが、今ならその気持ちがとてもよくわかる。

つまり、生と死という境界線というのは、たしかに明確に線引きされる部分ではあるが、そこをとりまく状況というのはなんとなくグラデーションであり、ぐるぐる回っている。

そう考えると、シャワーを浴びながら、「ワーーー」ってしたくなる回数も減るような気がする。そして、なにより、だからこそ、いまこの生きている時というのを、なるべく充実させておきたいと思う意識変革が起こる。だから、会いたい人にはなるべく会いたいし、やりたいことはやりたい。そして、誰かに「いいね」「おいしいね」と言ってもらえることに幸せを感じるので、そういった機会を増やしていきたい。

つまり、そうやって、毎日を一生懸命生きて、そしていつかそういう日が来たら、それはそれとして、すんなり受け入れるということができたら、上等なのではないかと思う。ときには家族に迷惑をかけるかもしれないしやきもきさせるかもしれない。しかし、家族は家族でそれぞれの自分の人生の輝きを求めて生きてもらいたい。

そんなことをついつい思ってしまうのでした。

このブログサイトをはじめた1年半ほど前、URLをどうしようかと思ったときに、いまこの人生の中で起こっていることを書きたいとおもったので、in-the-life.netとした。そんな初心を思い出させてくれる機会でした。

ちなみに、イベントは上町しぜんの国保育園という世田谷にあるとても素晴らしい考えをもった保育園で行われた。園長の青山さんもとても面白い方だった。小さい子供たちは、もうどうしようもなく生きている。うんちは漏らすは、どこかに行っちゃうわ。毎日が混沌としていると思う。そんな「生」を感じる真っ只中で、「死」に対して切り込んでいく繁延さんのお話しを聞くイベントを行ったというのはこれもまた興味深いこと。青山さんと何か僕の専門分野を生かして働くママさんに役に立つことをやってみたいな、とちょっと楽しい未来を想像してしまいました。

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